サービスとオペレーションの狭間で

今日は披露宴に出席してきた.今をときめくテイク&ギブニーズの旗艦店とされる某所での宴席.

同僚は「なかなか印象は良いです.もっと安っぽいのかと思っていた」と評していたが,僕には「うーん」という印象が残った.言ってみればオペレーションがうまくできすぎていて,サービスを受けている感じがないのだ.

到着後にすぐさま出てくる飲み物のサーブ.人前式結婚式会場の壁の奥にあるくぼみは,神父や牧師を連れてくればキリスト教の祭壇に早変わりするのだろう.どうしても人件費上若くならざるを得ない配膳スタッフたち.決して不愉快にさせるわけではないのだが,「味」がないのだ.最速上場企業が提供するサービスの矛盾を感じざるをえなかった.

サービスと言えば,昨日のisedが思い出された.司会の鈴木氏のサービスの定義は「所有権が移転しないもの」だったが,それで話をするとビジネスモデルの話になってしまう.そもそもサービスに必要なホスピタリティというような価値観の話がすっかり抜ける.

実は,isedが残りの回数が少ない中で魅力を失っている原因はここにあるように思う.倫理研では「人が読まずに機械がコンテンツを解析するのはプライバシー侵害と考えるべきではない」というような新しい倫理観のアイデアは出てきているが,それらと設計研の議論がリンクしているような感じがしない.新しい倫理観がぴしっと決まらないまま,最適化問題が設計研では繰り返し議論されている.それを要求するのは酷かもしれないが.

これは私の研究においても同じだ.私は社会学,消費社会論というのを学部からやってきたこともあって,価値の議論についてはそこそこ敏感である.ところが,今所属している研究室はビジネススクール上がりの教員や学生ばかりで,GDPの成長や,収益の最大化は与件となっている.たとえば,ユーザー発信型コモンズが無駄な消費の原因になっているかもしれないという議論はすっ飛ばされて,それが消費者をエンパワーしたり,賢い消費者を生んでいるということになっている.私自身,価値の問題を無視している自分を知っていながら,安易な博士論文を書こうとしているわけだ.

今宵の宴はかなり心地良い空間であったが,実はその心地よさにこそ切り込むべき課題があるのだ.