論文化にむけての作業

夏学期が終わった。博士号に必要な要件はすべてクリアをして、あとは論文のプロポーザル審査と論文そのものになった。むろん、これは課程博士のための要件だから6年を過ぎれば前提は変わってくる。あと残された時間は4年と8ヶ月程度である。

今、時間をかけている作業は2つである。

1つは先人の研究の構成面、方法論面からの分析作業である。これをやると気持ちがブレる。どういうことかというと、著名な研究者の長年の研究成果をまとめた書籍などを読むと、「あー、この水準までは到底たどり着けない。課程博士の期限への残された時間から逆算したらなおのことそうだ」という暗い気持ちになる一方で、「え、こんなので良いの」という博士論文にも出会い、これならできそうだなと思うからである。軽い躁鬱だ。

前者は、設定される問題はもちろん多様である。方法論的には事例研究が多いが、マルチケースのものもシングルケースのものもある。長年研究していると静態的な分析が蓄積されるから、動態的・歴史的視点が入った研究が好まれるような傾向があるような気がする。そして分析枠組みも誰かのものを援用するのではなくて、オリジナルなものもあったりする。すごい迫力だ。

一方で、後者の特徴は、「リサーチの容易さ」というところから発想されることが多い(のだろう)という点にある。ある技術が導入されてどう変わるというような簡単なモデルを作って、モデルに出てくる概念をデータとしてとって、ほら変わりましたというような調査をしてまとめるというものだ。どう変わるという対象が企業組織内だと一番やりやすい。企業組織に働く個人はホモ・エコノミクスであるという前提が受け容れられやすいからだ。これが企業組織間だと競争環境などが影響するし、一般消費者だったりすると難しさは増す。

というような分析が一つ目の作業。

もうひとつは、そもそもの自分の関心を遡及する作業である。

到底、著名な研究者の分厚い本のレベルまでは行けないにしても、課程途中に大きくテーマを変えて2年程度でお手軽なリサーチを一からして仕上げるのはあまり美しい話ではない。つまり「リサーチの容易さ」から発想するのはやめようと考えている。これまでの蓄積は部分的にでも生かしたいというわけだ。

そもそも自分の関心というのはそんなに大きく変化しているわけではないが、それでも少しは時とともに変わっている。また扱っている分野の環境変化が激しいので、こういう形で社会科学的に切り取れると思っていたら、そうでなくなっていたというのが実は非常に痛い。

このように技術的問題と精神的問題とをいったり来たりする日々であるが、ある師匠がくれた「博士論文というのはこれからのあなたのリサーチフィールドを切り開くものだ」ということばが解決策のような気がしている。