父親の役割とだめな大人

最近妻が激務。このままだと残業が月に100時間に届きそう。休日自宅でやったり、明け方家でやっているのを加えると150近いかもしれない。

というわけで、父親が息子とべったりとなっている。朝起きるところから始まり、夕方の迎え。晩飯くって、風呂入って、本を読んで、寝るところまで一緒。妻とこどもが会う時間というのが絶対的に減っているせいもあり、息子からしてもほとんど父と過ごしていると映っているのだろう。

こういう過ごし方をしていると、父親と母親というものの機能の差が現代においてはなくなってきているよなぁということを強く感じる。私はフェミニストでもないし、女性の社会進出云々という話にもさほど興味がない。ただ、妻が働きたいと言っているから「そうすれば」というだけである。働きたくないと言えば「いいよ。その代わり俺が分担していた家事はもうすべておまえの仕事。あと経済規模を小さくすることは了承しろ」というだけだ。

でも、子育てに関する父親と母親の役割はやはり本来的にはかなり違うよな、という意見は持っている。母親はやはり子供を守る存在である。対して父親は子供を外に連れ出して、一種の冒険心というものに気づかせそれを満足させる役割だと思っている。というわけで、週末は散策やら、買い食いやらを一緒にしているわけだ。ところがなんだか最近の私は母親的である。それがちょっと気にいらん。

が、これだけ一緒にいるとこどもについての発見もある。最大の驚きは彼の観察力である。たばこを道ばたに捨てている大人とか、犬の糞を取り忘れている大人とか、鼻くそをほじくっている大人とか(俺か?)、サッカーを見ている時に口の悪くなる大人とか(俺か?)を見ては事実の描写をしたうえで「だめだねー」と一刀両断だ。

そんなことがあり、子供にとってだめな大人というのはどういう人だろうか、という視点を持ちながら生活するようになった。そしてこの2週間ほどで「あー、これは相当だめだなー」と思った大人が2人。子供といっても高校生と大学生なのだが。

1人は、高校のクラブのOB・現役合同のMLで発言しまくるOB。現役を教えているコーチがいるのに、「当時の戦術は」とか語る大人。しかもあんたの代は弱かったくせに。

もう1人は、「あの先生はほとんど処世術しか教えないから」と陰でバッサリ斬られた大学の教員。この場合の処世術というのは研究者として生きる術ということ。学生の自発的な関心を伸ばすという力量に思いっきり欠けているらしい。

ま、世代の違うだけでいやおうなく「だめ」と映る部分はあるのだが、潔さを信条に見苦しいのだけは避けたいと思うこのごろである。