アーキテクチャ

日経新聞の文化欄に隈研吾が「不自由な建築」という文章を書いていた。

ここのところ、依頼される仕事の質が変わってきた。一言でいえば、ひどく不自由な仕事ばかり、頼まれるのである。今この場所にたっている建物を残して、そこにちょっとだけ増築して欲しいんですけど・・・。もともとは事務所ビルなんですけれど、建物を残したままで商業ビルに改装できないでしょうか。いわゆるコンバージョン、リノベーション、リフォームというたぐいのちょっと地味な仕事である。

隈はこれらを「不自由」な仕事と呼ぶ。そして不自由な仕事が増えてきた原因として良く挙げられる、不景気と環境問題についてそれぞれ否定する。実は不自由な仕事は費用がかさむ。また古いものを残すよりも新しいものに総とっかえしたほうがエネルギー効率もよい。というのがその論法だ。

そして、彼の考える不自由な仕事の増加原因はこうだ。

「自由」な新築建築の貧しさ

それらの建築が謳歌した「自由」とは、建築物の周囲の環境への配慮のなさの別名であり、その建築がたつ場所の伝統や風土に対する信じがたいほどの無関心を、都合よく「自由」と言い換えたにすぎなかったのではないだろうか。
しかもそこで行われた「自由」な造形は、よくよく観察してみれば、少しも自由なものには思えないのである。材料として用いられるのは、あいも変わらずコンクリートと鉄とガラス。建築基準法の高さ制限の範囲の中で最大限のヴォリュームを確保して採算性を高め、それらの何重もの制約の中で、なんとかして建築家という作家の個性を主張しようという悪あがきが、これらの「自由」な建築の正体だったのである

これは現在の音楽・映画産業で起きていることと大いに関係する。

Lessigは「法」「市場」「規範」そして「アーキテクチャ(技術)」というフレームワークで制約を語る。そして現状の音楽・映画産業では、技術革新が無視されたまま、「法」「市場」「規範」といった制約を受けずに大企業が力を持ちすぎているということをLessigは指摘し、バランスある制約社会にすべきと主張している。それが「自由」な社会であるというのだ。

コンクリートと鉄とガラスを使い続ける建築家というのはまさに「アーキテクチャ」の進歩と関わっていないそれである。伝統や風土に関する無関心は「規範」への無関心。ただし建築基準法を変えろとかクライアントの声を聞かないという傲慢さは少なくとも職人的な建築業界にはないようだ。

いずれにせよ、隈のことばでいえば、

われわれの都市はその「自由」のせいで随分と退屈なものになってしまった

ということが起きないようにしたいものである。