ネット世代論

世代論というのは盛り上がる。感覚的に納得できる人とそうでない人がいるからだろう。

ちなみに梅田さんのBlogでは「ゲーマー世代」が取り上げられていたが、「あなたのBlogが梅田Blogで取り上げられていたよ」と教えてくれた友人Kは「これからはケータイ世代でしょ」と言う。若者とつきあうことの多い彼は「メールといえば彼らは携帯メールなのだ」という。

仮に世代ということばを敢えて使わずに、「ネット人」「ゲーマー」「ケータイ人」としてみようか。するとネットというのはプロトコル、ゲーマーというのはアプリケーション、ケータイというのは端末という異なるレイヤーによって、言葉自体が規定されていることにならないか。

つまり「ネット人」はプロトコルとその派生物である様々なアプリケーションに感動し、「ゲーマー」はゲームというアプリケーションに感動し、「ケータイ人」はケータイ端末を所与のものとして駆使する。やっぱり世代と関係ありそうだ。科学じゃないかもしれないけれど、マーケティングの観点からは考慮した方がよいだろう。

たぶん一番イデオロギッシュなのが「ネット人」で、「ゲーマー」はプラグマティストでプロセス重視。戦略とは柔軟性そのもの、という捉え方をするのだろう。これは固定的な戦略を好む「ネット人」とはちょっと違うかな。梅田Blogでは私の書き方のまずさもあって、三木谷と堀江は年齢で切り取られていたけど、どっちかというとホントに伝えたかったのは三木谷は固定的な戦略(つまり黒字化できれば万々歳だけど、4年で黒字化しかなったら球団を売ると今から考えている)をどちらかというと好み、堀江は業態変容こそ戦略で、そのプロセスを自然体で楽しんでいるのでは、ということだった。事実、印象に残っているのは2日の新聞記者の取材に対して「僕にストーリーを求めるな。淡々と生きている人なのだから。僕は」と堀江が答えていたことだ。

さて、話を戻すと、ゲームアプリについては、端末レイヤーにおいてPCと専用端末の両刀遣いがおり、またプロトコルレイヤーにおいて両層ともインターネットの存在を知覚しているため、「ネット人」と「ゲーマー」は近いのではないか。まあ、「ネット人」で「ゲーマー」で「ケータイ人」というひともいるだろうし、「ゲーマー」かつ「ケータイ人」という人もいるだろう。

まあ、世代論を科学的にやりたい人は、「ネット人」「ゲーマー」「ケータイ人」というようなフレームワークを作って、それぞれの属性を決める変数を見つけて、それを計量しつつ年齢との相関分析でもするのだろう。