紙人間にとってのBlog

今日の作業で、なんとかなりそうな気がしてきた。

50日で書き直せと言われた論文のことである。

さて、論文にしろ本にしろ、文章というアウトプットを出すときに、「つきぬけた!」と感じる瞬間がある。論理的にうまく言葉にできた瞬間、だ。振り返って見ると私がこの瞬間と邂逅するときには必ず紙というメディアが存在している。推敲作業は必ず紙に印字して、座ってなり、寝てなりそれを読み直してでないと行われえない。

この現象について考察を加えてみると、やはり紙というメディアが持っている質感のようなものが必須という結論に達する。PCの画面だとたしかにあまり広い範囲が表示されないとか制約があるが、紙でもそんなに沢山の段落を遡って論理の整合性を作るという場面が頻繁に訪れるわけではない。せいぜい、冒頭の問題提起と結論の受けがきちんと一致しているかという作業を、本当に仕上げの段階で行うぐらいである。

翻ってこれまでのBlog執筆を振り返ってみると、さすがに紙で内容を推敲したということはゼロである。つまり紙人間の私にとっては、その程度の文章しか書けていないということになる。

ということなので、私のBlogにおけるアウトプットはかなり技術による制約を受けているということになる。そしてその制約に対してのコンセンサスがBlogユーザー全般にあるから、Blogという活動を5ヶ月ほど続けて来られたということになる。

そのような経験から私の中での技術と利用者の関係はRogersの「コミュニケーションの科学」コミュニケーションの科学―マルチメディア社会の基礎理論に書かれている、極端な技術決定論の立場はとらないものの、技術は他の要因とともに人間や社会に変化をもたらす、という立場がしっくり来る。でもこれはもともとそこそこ書きたかった人の技術への対応の様子であって、技術が人間の表現欲をどれだけかき立てるかというとそうでもないのだろう。そんなことを佐藤俊樹が「ノイマンの夢・近代の欲望」ノイマンの夢・近代の欲望―情報化社会を解体する (講談社選書メチエ)でいっていたっけ。

あ、すでに論旨がおかしい気がする。でもいいや投稿してしまえ。子供の迎えに行きます。