『すばらしき愚民社会』

小谷野敦の本ははじめて読んだ。『もてない男』と同じ著者と知って少々驚いた。けっこう面白い本だったので、日記に書こうかと思っていたら、たまたま橋本大也さんもBlogで取り上げていたので、トラックバックしつつ書くことにした。

私も全般的には個人名でバッサバッサ斬るところが面白かったという点は橋本さんと同様である。でも、「不遇の学者が世の中に対して愚痴をしゃべっている本。ちょっと恨みがましくて、新橋の居酒屋に通じるものがある。」という彼のコメントを読んでずいぶんと本全体からの受け取り方が違うと感じた。

私はこの本を、「まじめな研究者が正論を述べている本」ととらえた。たしかに彼は不遇なのかもしれないが、もともと大阪大学助教授だったのを自らやめているわけだから、非常勤講師の職にしかありつけない者たちからみれば不遇ではない。積極的に今の非常勤講師+文筆業というスタイルを選択しているのだから、あまり愚痴という感じはしない。むしろ正論をこのレトリックで綴っている本との印象を持った。正論なんてあるのかよ、というツっこみはさておき。

インターネットで誰もが発言する時代になったということに対する筆者の受け止め方は私のそれとはかなり異なっているが、それでも以下のようにいくつかの部分は非常に共感できた。

  • 「分からない」は「分からない」でよいではないか
  • 「笑ったもん勝ち」は許せない
  • 「笑われること」を恐れるな
  • 粗製濫造される「へなちょこ学問」
  • 政治家が政治をやるのは許せるが、学者が政治をやるのは許せない

これはいずれも今の自分の境遇から共感するのである。

上記は全部自分の中では関連しているのだが、補足すると、

  • 社会科学なんて疑似科学なのに、すぱっと不変の法則があるように論じる学者が多いのに辟易とすることが多い。
  • 新しい現象を論文で取り上げるに際し、既存理論から演繹される仮説を構築し、それを検証するという作業をしても新しい現象をほとんど描ききることができない。それをいくら言ってもへなちょこ学者にはわからない。「説明変数と従属変数の関係も論じていない」というような一言で片づけられる。
  • COEなんてものができて、研究テーマに妙な社会性が付随するようになった。研究テーマに社会性があることはけっこうなのだが、自ずと研究そのものよりも、研究成果が達成された暁(日は本当に昇るのだろうか?)の社会のビジョン(はい、これは政治的言説です)の善し悪しで研究の善し悪しが決まるようになり危惧している。

ということを、常日頃感じているからだ。「新橋の居酒屋に通じるものがある」のはむしろ私の日記だな。

さて、最後に橋本さんも「象牙の塔にこもる知識階級の時代は終わったのではないか。著者の言うような”すばらしき愚民社会”では、「正しいおじさん」になる技術も必要なのではないかと感じた」と書いているが、これは私も同感。私がよく使うのは松岡正剛にならって編集技術ということば。

ちょうど、この週末ある友人と共通の知人Aについて「Aさんは編集技術がないよね」と話していた。要は人と人を引き合わせるときに何らかの付加価値を提供できるかどうかということである。「Aさんはそこそこ偉い人なので知り合いの偉い人を紹介してあげることだけで相手に喜ばれ、いつまでも自分が間に介在してピンはね出来ると思っているよね。そもそもあまりマッチしない相手でも、俺は××さんを知っているのだというアピールが先行して紹介してしまうよね」というのが私たちの会話の趣旨であった。

この友人は面白いことを言っていた。「スタジオジブリでも宮崎、鈴木コンビで大きく稼ぐ一方で、若い才能にそこそこの予算を与えて育てるような時間軸を入れたポートフォリオ管理をちゃんとしているのよ。若い人にカネと優秀なスタッフを与えて、だんだんとジブリブランドでなくても食っていけるように独り立ちさせるわけよ」。これも編集技術なのだろう。