選択と責任

会社の同僚に「来期以降もこの仕事についてのアドバイスをください」と言われたので、「ふざけるな」と突っぱねた。「これはもうあなたの仕事なのだから、あなたがお客さんから引き続き頼まれたいと思われる存在であれば、仕事は継続でくるし、そうでなければそれだけの話」なのだ。そろそろ私は会社から消える。

でも、言った本人の気持ちはわかる。私にも似たような経験が2度あるからだ。

1度目ははじめの会社を辞めて、2年間の学生生活を経て再就職をするとき。日本の労働市場流動性が想像以上に低いことを実感して弱気になっていた時だ。はじめの会社の先輩が私の興味ある子会社に出向していたので、ちょっと擦り寄ってしまった。言われた言葉が「俺はお前の親ではない」である。

次は、何とか二つ目の会社を見つけて入ったものの、入る時にこの人と仕事がしたいと思っていた人がすぐにやめてしまった時である。正確に言うと、この人が辞めたときには本人と話していなくて、私がその2年後に3社目に移る前に独立した彼の新しい会社を訪ねた時である。「○○さんはすぐにやめてしまったから」といった私は「それは事前に情報収集をしなかった君がナイーブというものだ」と言われた。

今、思い出しながら書いていると1度目の7年前より、2度目の5年前のほうが、少しばかり「自分でなんとかやってみよう」という気概が見られる。さて、この二人がそれぞれの言葉を発した時というのは、大体私の現在の年齢で、今でも自分の力で食べている人たちである。彼らから「きみならなんとかなるだろう」といわれたことは、自分としてそれなりの自信になっている。そして何よりもしかってくれた彼らに感謝している。

重要なことは自分で考えて選択することと、その選択の結果を自分の責任として受け容れることなんだろう。暫定的結論。

何と言っても、成り行きの選択をしたばかりに、どうにもならなくなっている人が多すぎる。労働ではなく、仕事として生き生き働いている人というのは存外少ない。ここが第一段階。

第二段階については、選択の結果を受け容れることでうまくプラスにできればよいが、それはなかなか簡単ではない、というのもあろう。まさにこの手の批判がさきの同僚からあったのだが、それはこの同僚が大きな組織に長い間身をおきすぎたからである、というのが私の反論。大きな組織から出れば、自ずと自分以外の影響する外部要素が減って、選択の結果に言い訳ができなくなる。そして頼るものもないから自分でやるしかないという結論に達するというのが、経験上いえることだ。