電子メールにおけるccの使い方

今日は「フォーサイト」が届き、梅田望夫さんが連載に「はてな」の情報共有文化と意思決定の速さを書いていた。

その中で、「電子メールは情報を隠蔽するメディア」というような表現があった。それは確かにそうだし、話の展開上そう書くしかないのだが、私の中では「電子メールというのうは暴力的なメディア」あるいは「電子メールというのは無駄なコストを拡散するメディア」と捉えられている。

「暴力的なメディア」というのは95年にSunにおける電子メール利用法について調査してたときにインタビューでたびたび聞いたことばである。そういう意味ではアメリカのベンチャー企業における電子メールの位置づけと言えるかもしれない。要は一方的に送りつけるもので、それこそはてな社員が各自のBlogで書いていたって、見ない社員は見ないというのと対極にある考え方だ。

欧米企業のマネージャーは本当によく働く。責任の所在が明確だからだ。だから、暴力的にメールが送られると見る。部下もその前提で送る。ただしマネージャーのアドレスは一連のやりとりの最初から、少なくともSunでは、入る。暴力的ゆえの仁義ということだろう。

それに比べて、日本の大組織では、それまではやりとりに入っていなかった上司のアドレスが、あるときからccではいるケースが多い。多くの場合は「仕事していますよ」という部下の上司に対するアピールか、「問題が厄介になってきたから責任転嫁」である。

これは甚だ迷惑である。特にそれまで責任者としてやりとりをしていた中間管理職がいたにもかかわらず、平社員が中間管理職の上司にあたる人間を突如ccに入れると一気にメンバーのコミュニケーションコストが上昇する。その問題のオーナーシップが誰にあったかについての見解が一転し、みんなが混乱するからだ。実は私の所属している研究室にもこの傾向がある。いきなり同僚の返信に教授のアドレスがccで入っていることが多い。

なぜそうなのかを考えてみたが、以下の3つの理由が絡み合った結果だと結論した。

1つはメンバー構成上2階層の組織になっているから。最終意思決定者は多くの場合、教授である。あとのメンバーはみなただの学生である。つまり中間管理職は存在しない。

次に、「教授は忙しい」という認識を学生が全員持っており、当初は「こんなことはいちいちメールをするのはやめよう」という心理が働くから。前述の暴力的ゆえの仁義というよりも遠慮が働いているわけだ。

3つ目は、私が自分で責任をとって自分の問題にしてしまう傾向の強い人間だからだ。最初の会社では「で、おまえ仕切れるのか?」という会社ことばがあったが、これは仕切れさえすれば、1年目でも何を言ってもやっても良い、というカルチャーがあったということだ。ところがこれは異端である。

ccの使い方の実証研究というのをいくつかの企業で比較したら面白いだろうな。むろん大学の研究室でも面白そうだ。