楽天小史

今日は、六本木ヒルズ楽天が越してから初めて同社を訪問した。入館証をもらい、あまり良い雰囲気ではない暗めの廊下を抜けてエレベータで上昇する。18階の楽天グループ総合受付というのに行くと、受付には8名ほどの受付嬢がいた。制服は着ていなかったが、おそらく派遣社員なのだろう。新卒採用の面接も同時刻にあったせいか、その他に人事部らしき人が3名ほど。18階の1/4ほどの空間には密閉された会議室が3つと、オープンスペースに丸テーブルが10個ほど配置されており、かなりぜいたくなスペースの使い方。株式会社の仕組み有効性と楽天の成長ぶりを実感でき、それなりの感慨に浸った。

というのも、僕は楽天の創業メンバーの一人Hが友達で、MDM(マジカル・デジタル・マーケット)時代の愛宕山のオフィスから祐天寺、目黒のオフィスを知っているからだ。

Hは96年に三木谷さんに、自分が行きたかった興銀をやめた人として会い、「ベンチャーの時代」というような訓辞を受けてMDMに就職した。インターネットでモノを売るというのは実はHのアイデアだし、楽天市場という名前もHが発案者だ。96年に僕が修士論文を書いていた時、Hは「地方の店主でも簡単に出店ページを作れるように」ということでASPサービスの走りとなるアプリケーションを開発していた。

僕は97年にアメリカの経営コンサルティング会社に入ったが、オフィスが神谷町にあったので、同じ神谷町の愛宕の山を越えた雑居ビルに入っていたMDMにHを訪ねたこともある。当時はPC3台ぐらいの何の変哲もないオフィスで出店者も30程度という時代だった。三木谷さんとも会って、MDMの名刺をもらった。彼には「コンサルティング会社なのに、カジュアルな格好で昼休みにフラフラしていていいんですか」と突っ込まれた記憶がある。念のために言っておくと、それは長きにわたる大阪でのプロジェクトが終わった直後97年11月のことであった。

その後、99年に今度は祐天寺に越した同社を訪ねた。当時はもう電子モールということでは勝負がつきかけていて、Hはここが楽天大学だと、出店者への初期教育のスペースとメンバーを紹介してくれた。このオフィスでは2フロアーぐらい借りていたような気がするが、まあ狭いスペースに沢山の人がいること、という記憶がある。

その後、2001年に今度は目黒のオフィスを訪ねた。このときはビルをほとんどまるまる借りていて、オフィススペースにはすでに入ることが出来なくなっていた。1階の会議室スペースには10数個のブースがパーテションで切られており、そこで社外ミーティングを行うという約束事になっていたようだ。当時は僕はデータセンター事業のプランニングの仕事をしていて、メディア・エクスチェンジに入っている同社のハードウェア構成や支払っている料金などを聞きに行ったのだが、Hから紹介してもらった相手は元興銀の方で、ほとんど何も具体的な数字は教えてもらえずに帰ったような記憶がある。もう相当しっかりした会社になっていた。

それから4年近くたって初めての六本木ヒルズである。8人の受付嬢はちょっと多すぎると思ったが、かなり無駄が許容される会社になったのだろう。

楽天は、要はネット通販なので、そんなに仕組みとしては面白くはないけれど、それでも地方の個人商店に全国チャネルを提供したという意味では、いま流行のLong tailの話がやはり適応できる成功事例ではある。三木谷さん自身もそのようなコンセプトを当初にもっていたことは僕も知っている。あとは、三木谷さんはその仕組みをかなり大きくしてからIPOしたという意味で、構想力と実行力のある人と僕のなかでは位置づけられている。

まさかサッカーと野球の球団オーナーに三木谷さんがなるとは思わなかったけど、まだ8年ちょっとの物語だ。