ised第2回倫理研

第1回倫理研とは異なり現場での傍聴。白田さんが発表者。

電網界の1.部分社会説(法曹の発想)、2.新領域説(自由至上主義者の発想)、3.四規制力説(新シカゴ学派の発想)が紹介された。白田さんはこのいずれにも与しない立場。なぜならば、1.は論外としても、2.については自由な個人が集団を形成しても自ずと秩序・規範・法律が生じないし、3.については電網界では価値選択ができないと考えているからだ。

もう少し詳しく書くと、個人がその内面において多元化するからというのが2.についての理由で、電網界におけるコミュニティは細分化するからというのが3.についての理由だ。後者については、よくLessigが「彼はアメリカの民主主義に特別な価値を見いだしすぎ」と批判されるが、そもそも民主主義という価値が常識とはならないだろうという考え方がこの批判にはある、という話だと思う。

ちなみに大陸法英米法の構造には違いがあるらしい。前者は普遍的な価値(のようなもの)を実現するために法が存在するとするが、後者では、法の意味は最終的には問われずそれは手続法を中心に構成されるのだそうだ。「アメリカは特に価値多元社会で、法自体もそれだけで完結する法体系を持たないため、一般人をあれだけ巻き込む形で電網界と現実社会における法についての議論が行われている。これは正統的な大陸法学者からすれば気持ちの悪いことと写っているのではないか」という白田氏の解説。

で、白田さんの提案は、やっぱり常識(それは東さんに言わせると正義)というものを作らないといけないよねという発想で、伝統主義、保守主義と彼が呼ぶものだ。つまり過去の法律を網羅的にレビューすることで、何らかの普遍的なものを抽出できないかということである。ただしこれについては、白田さん自身も認めているが、近代法の体系を持つ国家にしかその範囲が適用できないという限界を抱えている。ちなみに白田さんが著作権法の歴史研究を通じて「著作権法とは情報の流通を市場の仕組みを使ってもっとも効率的に行うための仕組みである」(と言っていたと思う)という結論に達したという体験がこの伝統主義には大きく影響していると考えられる。

また、批判として挙げられたのは、白田さんの構想は結局、環境管理型社会の流れに乗るものではないか、というもの。これに対しての白田さんの回答は「環境管理型社会への流れは不可避であり、むしろ技術者が勝手にその流れを作るのでなく、ブレーキ役として法学者や人文科学者は発言すべき」というたぐいのものであった。

以上の白田さんの発表は東さんに言わせると、「近代は内面と身体を統一的に管理していた時代。ところが情報技術はコミュニケーションと身体を分離する方に働くから、ポストモダン社会においては身体を管理しつつ内面を自由にするようにすべき。それが複数のコミュニティと単一のアーキテクチャ」ということになるのだろう。わかりやすい例としては、RFIDタグを全人類に埋め込んでもよいから、多様な価値観が共存して、テロも起こらないような社会になってほしいという話だ。

内面の自由ということに関しては、彼は、1,多様な価値観の共存、2.コミュニタリアン、3.規律訓練型権力の作動域、4.市場の論理が支配というキーワードを挙げる。4.がちょっとわかりにくいが、サービスは顧客のそれぞれに合わせて提供されるということである。これに対して身体の管理ということに関して挙げられるキーワードは、1.価値中立的なインフラストラクチャ、2.リバタリアン的なメタユートピア、3.環境管理型権力の作動域、4.セキュリティの論理が支配である。

まあ、こんなところだが、終了後の鈴木健さんとの会話が印象深かったので、少し書いておこう。曰く「彼らはグローバルか小さなコミュニティかという二者択一の議論しかしていない。僕はもっと世の中をなめらかにしたい」というものだ。これは現在開発中のソフトウェアのコンセプトを彼が言い表したもので、市場でも組織でもない、まさにネットワークということなのだが、人にそのソフトウェアが使われる段になったら、結局、グローバル、国(民族)、仲間内、自分というせいぜい4つぐらいのきわめてデジタルな境界ができてしまうのではないかということをその雑談の時も感じたし、今書きながらもそう思う。

で、今日の議論と自分の研究との接点ということについて、研究会の最中にアイデアメモをいくつかとったのだが、それについては後日、また整理しようと思う。下書きモードになってしまうかもしれないけれど。