日本での情報流通の分散化というのは、どうなんだろう(上)

今度、慶応大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)のイベントでコーディネーターをやることになった。草野厚先生と坪田知己先生の対論である。http://orf.sfc.keio.ac.jp/program/index.html#04 

サブタイトルを「2020年:メディアリテラシーとメディアの仕組み」として、

  1. マス、ネットを問わずメディアで発信される情報を読み解く力を備えた市民がいて(メディアリテラシー
  2. その市民の一部が今以上にネットメディアで発信し、現状のマスメディア中心で世論が形成される仕組みから、もう少し広い層により世論が形成される仕組み(メディアの仕組み)

へと変わるといいな、変えたい、というシナリオを提示しつつ議論する予定だ。

論点としては、

  • ポピュリズムに陥ってしまうのではないの?
  • ネットメディアでの多様な発信情報をどう市民にうまく届けるの?

といったようなことになり、後者については坪田先生が「コンテンツ流通の4層モデル」というのを提示して話をしてくれるはずだ。

でも、「ネットメディアでの多様な情報発信」なんてものは、少なくとも日本においてはさほど期待できないと最近考えるようになった。

私が研究対象としている化粧品のクチコミサイトというのがある。月間訪問者数が約75万人であるが、これは20〜39才までの女性の人口約1730万人の4.3パーセントである。さらに投稿経験者というのは約25万人であるが、これは1.4パーセントである。化粧品というものを使わない女性、限りなく関心がゼロである女性もいるだろうが、それを除くと2パーセント程度の人が発言しているということになる。

そしてこの25万人の投稿経験者における投稿集中率を見てみると、実に発言数の多い上位10%の人で57%の発言数を占めており、ジニ係数というのは0.695である。つまり発言の57%は母集団の0.14〜0.2%で構成されているということだ。

問題はこれを「ネットメディアでの多様な情報発信」というかということである。確かにテレビ局の制作や新聞記者やたとえば化粧品なら美容ライターになるが、現在の世論を作っている人の数が相対的に増えるということはあるのかもしれない。でも上記の0.14〜0.2%という数字が10倍の1.4〜2.0ぐらいにならないと、「多様な」ということは言えないのではないだろうか。

たとえば、現在の20才の人口は140万人程度であるが、この0.2%というのは2800人。これは東京大学の入学者数3300人より少ない。これが2%になると2万8000人で、東京大学京都大学早稲田大学+慶応大学+日本大学で大体この数字だ。もちろん発言する人が全部東大生というようなわけではないだろう。したがって、どんな2800人なり2万8000人が発言しているかが問題になるわけだ。

今日はこのぐらいにしておこう。