『デザイン・ルール』

Baldwinのデザイン・ルールデザイン・ルール―モジュール化パワーを読んだ。2000年に出た本をいまさらという感じだが、たしかに古典になりうるといわれるだけあって今でも十分通用する。

製品設計のモジュール化が、産業をモジュールクラスター化(製品を構成する部品設計・製造に特化した小ぶりな企業が完成品メーカーと取引することで、当該産業の参入企業数と産業自体の規模が大きくなる、とここではしておくか)する原動力になっているという分析はすばらしい。

さらに、製品をモジュール化するにあたっては、その費用対効果という当たり前の原理が働いていること、加えてそのようなモジュール化製品を持つ企業に対しての投資家の投資心理まで射程に入れた動的な分析は秀逸だ。この費用対効果という道具を使っている点が、「インターネットで自律・分散・強調型のネットワーク社会ができる」とビジョンだけを謳っている人たち(主として社会学系)と大きく異なっている。

でも、必ずつきまとう批判がある。「これはコンピュータ・ハードウェアだけの話でしょ」という奴だ。それはそうかもしれない。そしてこういう当たり前で、ある意味バカらしい批判が理論を精緻化させるのだ。やれ自動車はどうだ、情報システム開発はどうだ、オペレーションシステム開発、ゲームコンテンツ(ソフト)開発はどうだ、という話だ。

けれども私はこの手の話は少なくとも現時点ではあまり興味はない。というのは、自動車のような物財にしろ、オペレーションシステムのような情報財にしろ、それらは機能財として企業が収益化の源泉とできる経済価値を持っているからだ(ゲームが機能財かと言われると難しい。私はゲームのことはてんでダメなのでわからない)。

当然Baldwinも「資本市場で決定された価値こそが圧倒的に過去50年の(そして、現在でも)コンピュータ産業の変化を突き動かして」いると述べていて、すでに明示的・経済的に価値があると認められているモジュールのみがその分析対象となっている。

私の関心は、まだ明示的・経済的に価値があると認められていない、消費者発信型サイトの持つ価値に向かっている。もちろん、企業はそのようなサイトの集客価値は経済的価値と認識している。だから広告事業が成立する。けれどもそのようなサイトの持つ情報価値についてはまだあまり認識されていない。だからLinuxのように機能財で進んだコミュニティ・アライアンス戦略は自然言語での消費者発信型サイトの周りではなかなか進まない。

さあ、じゃあどうするか?それを今、見ているのだ。