Blog体験と「デジタルカプセル」

Blogを書き始めてほぼ2ヶ月が経過した。ついに「はてなダイアリーガイドブックはてなダイアリーガイドブック―ウェブログでつながる新しいコミュニティなるものも買ってしまい、このように画像を貼り付ける技も会得した。

感想だが、やはり読者を意識して書くのがBlogだ。ただしそれは「読まれているかも知れない」程度のものである。初めてわかったのだが、Blogというアプリケーションやインターフェースが規定する気楽さというのも確かにある。これまで紙媒体で原稿を書いたことも幾度となくあるが、それとは違う作法というのがあるということが体感できた。ちなみに某所に行って読者が20名ほどはいることがわかったが、ちょうど良い数字かも知れない。きっとこれが100を越えてくると、もう少し紙媒体作法が出てしまって推敲などしてしまい、結果としてBlogを書かなくなるように思う。

あとはインタラクティブ性の観点から。はじめの1ヶ月はコメントはつけられないようにしていた。その後コメントを受け付けることにした。まだコメントをもらったことはないが、別にコメントはもらわなくてもよい。というか、むしろあまり貰いたくない。

という感想を書こうと思っていたときに、ちょうど読んだのが「ネットワーク・リアリティ」ネットワーク・リアリティ―ポスト高度消費社会を読み解くで、こんなことが書いてあった。

2003年12月に行ったグループインタビューで、筆者は次のような発言に驚きを隠せなかった。それは、携帯メールと音声通信について話を聞いているとき、ある学生が「電話する場合には、携帯メールで「今電話しても大丈夫?」と確認してから電話することにしている」といったことである。(中略)同席していた他の参加者にも聞くと7名のうち6名が基本的にそうしていると答えたのだ。

この後150人の講義で筆者が学生に同じ質問をすると、ある程度そうするというのが1/3程度で、時にはするというのが1/3程度、残りは基本的にしないという回答であったので少し安心したと書かれていたが、携帯メールは非侵襲的で迂遠的なコミュニケーションだからこれだけ普及したと筆者は言っているわけだ。そして、このようなデジタルカプセル人間には携帯メールよりも心理的距離が遠い対人関係の表現であるBlogもフィットするというのが筆者の分析だ。

だとすると、Blogにけっこうハマっている私は他者からの強い影響を受けるのを恐れるネットのアイデンティティを実社会と別物としてしまうデジタルカプセル人間ということになる。

でもこれは違う。私の場合、98年から02年頃までMLなどにものすごい入っていて、面白い人を見つけ、結構直接会うということをやっていた。その時期に出会った人達からさらに人を紹介して貰ったりもして、当時のネットワークは今でもダイナミックに作用している。という意味では韓国人はリアルとネットがリンクしていて「つながり」を生んでいるが、日本人はそうではないという筆者の分析に当てはまらない行動パターンを私はとったと言える。

で、なぜコメントがあまり欲しくないかというと、ちょいとフローの情報のインプットは少なめにして考えモードというかアウトプットモードに自分がなってきているからだ。私は自分をネットワーカーだと思うが、でも名刺交換会というのは好きではない。少しずつネットワークを築いくという方が性に合う。ダンパーという人が人間の脳の大きさと群れの大きさの比例関係を示したというが、それによると大体人間がアイデンティティを認識できてまともにコミュニケーションを取れるのが150人ぐらいらしい。

で、今の私には150人に近いぐらいの何か聞けば答えてくれるような面白い知り合いがいるので、別に不特定多数コメントはいらないというわけである。そもそも読者の20名と150人というのの重なりも多いはずだし。

ちなみにネットワーク・リアリティという本の結論は、日本は携帯のみでのネット接続をする人の比率が特に若者で高くてやばい。「つながり」が生まれず付加価値を生まれない。アメリカみたいに社会の人口が増えて、若い国は良いけれど、日本は人口が減っていくから「つながり」を作って行かねばならない。北欧がモデルになるんじゃないの。というものだった。まあ、当たり前なのだが、データが豊富に利用されていて、部分部分には鋭い切り口もあり、まあそれなりの価値はある本だった。