説明する社会科学と応用する社会科学

GREEのプロフィール欄にも書いたように、インターネットに生活者が発信した情報を蓄積・公開する事業者が単独での事業化に成功するのかということが関心事だ。10年以上前はマスメディアに関わる仕事をしていたのだが、インターネットと出会い、こちらに鞍替えした。会社をやめて大学院に進んだ。ただし、当時は「ネットワークが普及すると世の中がどう変わるのか?」という程度の問題意識だった。

その後、想像以上にネットワークは普及した。そして、実際のユーザーの利用の仕方がこれまでのルールと軋轢を生むケースも散見されるようになった。音楽コンテンツのコピーなどにまつわる問題もその一つだ。

僕が今、心配しているのは生活者が発信した情報を蓄積・公開する事業者が果たして広告収入だけでどこまで行けるのかということだ。広告モデルはマスメディア、つまり一つのチャンネルに多くの読者や聴衆がいることが前提となったモデルだ。

ユーザーからすれば、情報が蓄積・公開されていることが主たる価値であるから事業者は過去に遡って情報を提供しようとする。つまりコストはずっと増加していく。だが、広告収入は月の訪問者数やページビュー数で決まり、これはどこかで頭打ちになる。むろん、広告収入で入る金額の絶対値がそこそこ大きくて、粗利も高いから、50年ぐらいは広告収入でも大丈夫なのかもしれない。もちろん逆にユーザーが必要としているのは過去3年の情報だけなのかも知れないからコストを減らすことも出来るだろう。

僕は、生活者が発信した情報を蓄積・公開する事業者が広告モデルだけで行けるのか、という問いを立てたわけだが。このような実証研究をミクロレベルでするのは、信頼できる情報が流通・蓄積される社会をデザインする上で何らかの貢献が出来ると考えているからだ。つまり自分の研究と社会とのリンクを、もちろん主観的なわけだが、考えている。

というわけで、いろいろとデータをとって分析してみる。で、たまには論文で投稿する。実証結果だけを書くとただの報告書になってしまうので、関連する理論から仮説を構築して、論文ぽく粉飾したりする。ただし、そのような論文には、前項のような問題意識と社会とのリンクを詳しくは書かない。イデオロギッシュになってしまうからだ。字数制限のある学会誌の場合この制約が大きい。

すると説明する科学に安住し、この事例を実証研究している筆者の問題意識に想像すらめぐらせず、些末な知識を膨大に抱える研究者から難癖が色々とつく。「もっと理論を勉強せい」と。特に最近ひどい目に僕があっているのが「消費者行動論」という分野の連中だ。彼らはひたすら消費者の行動を説明する。行動を正確に説明できるパラメーターが一つ見つかると喜ぶ。しかもどうやらなぜ自分が消費者行動論を研究するのかということを忘れているようだ。たこつぼというのは恐ろしい。

ただし、じゃあ応用する社会科学の方法論があるかと言えば、ない。ただし国立大学の独立行政法人化などもあって、社会科学においても応用することに関心は向かいつつあるようだ。

僕は方法論として体系化することなどおよそできないが、これから書こうとしている長い論文を書く際に心がけようとしているのは次の3つ。

叙述的であること(現象の示唆することの広がりを表現するため)。

解釈的であること(理想的には既存の理論ではむしろ説明できないことを強調し、自分なりの解釈を加えメカニズム解明を志向すること)。

歴史的な観点を持つこと(自分の研究はある一時期の現象についての説明にしかすぎないという立場をとること)。