紙人間にとってのBlog
今日の作業で、なんとかなりそうな気がしてきた。
50日で書き直せと言われた論文のことである。
さて、論文にしろ本にしろ、文章というアウトプットを出すときに、「つきぬけた!」と感じる瞬間がある。論理的にうまく言葉にできた瞬間、だ。振り返って見ると私がこの瞬間と邂逅するときには必ず紙というメディアが存在している。推敲作業は必ず紙に印字して、座ってなり、寝てなりそれを読み直してでないと行われえない。
この現象について考察を加えてみると、やはり紙というメディアが持っている質感のようなものが必須という結論に達する。PCの画面だとたしかにあまり広い範囲が表示されないとか制約があるが、紙でもそんなに沢山の段落を遡って論理の整合性を作るという場面が頻繁に訪れるわけではない。せいぜい、冒頭の問題提起と結論の受けがきちんと一致しているかという作業を、本当に仕上げの段階で行うぐらいである。
翻ってこれまでのBlog執筆を振り返ってみると、さすがに紙で内容を推敲したということはゼロである。つまり紙人間の私にとっては、その程度の文章しか書けていないということになる。
ということなので、私のBlogにおけるアウトプットはかなり技術による制約を受けているということになる。そしてその制約に対してのコンセンサスがBlogユーザー全般にあるから、Blogという活動を5ヶ月ほど続けて来られたということになる。
そのような経験から私の中での技術と利用者の関係はRogersの「コミュニケーションの科学」に書かれている、極端な技術決定論の立場はとらないものの、技術は他の要因とともに人間や社会に変化をもたらす、という立場がしっくり来る。でもこれはもともとそこそこ書きたかった人の技術への対応の様子であって、技術が人間の表現欲をどれだけかき立てるかというとそうでもないのだろう。そんなことを佐藤俊樹が「ノイマンの夢・近代の欲望」でいっていたっけ。
あ、すでに論旨がおかしい気がする。でもいいや投稿してしまえ。子供の迎えに行きます。
オマーン対日本
1対0で勝利。アジア最終予選進出。
0-0
0-1
0-1
終わってみれば、ゲームプラン通りの試合となった。ジーコは理想が1-0、他の可能性として0-0、1-1を想定していたはず。しかも前半のスコアは0-0と見ていただろう。後半の先制点も10〜20分あたりで入ると踏んでいたというのが私の見立てだ。
しかし点が入る時というのは美しいものだ。中村の左足でちょっとボールをとめるタッチからのクロス。そしてそこに走り込んだ鈴木の左45度の角度で叩きつけるヘディングシュート。
ちょっとどたばたした時間帯もあったけど、お気に入りの中沢を含めたディフェンスラインはくずれなく無失点でしのいだ。ちょっと言い過ぎかもしれないが、本当にアジアカップを経てチームが成熟してきた感じだ。トルシエは規律という劇薬でチームを急変させたが、ジーコは放任と経験という漢方薬で徐々にチーム力を上げている。
相変わらず、両サイドには不満が残る。しかし通訳としての新境地を見いだしたサントスには7点をあげよう。
あとは中田をどう使うか。絶対に俊輔と同列か前で使うのは反対なので、ボランチになるのだろうか。