情報社会の倫理と設計についての学際的研究

倫理研の第1回議事録が公開された。この議事録作成者を個人的に知っていることもあり、敬意を表して、雑ぱくだが感想をいくつか述べてみよう。あ、もちろん委員のみなさんにも敬意を表して。

これは白田さんから指摘があったとおり。ただ白田さんは真性保守主義だから、どちらかというと他の2つにサイバーがついていることの方が気になっていたようだけど。わたしはむしろ保守にサイバーがついていないことが気になった。

これは後にわかるのだが、白田さんは国家レベル(かどうかは不確かだが)の全体的な価値形成を指向するから、「サイバー」にある種の特殊性を求めるのがお嫌いなのだろう。私はどっちかというと、やっぱり「サイバー」にまだ何らかの期待があるのだね。ただ、2ちゃんねるというものにまったくはまらなかったから、「いやあ、その発想はしかしヘーゲル的だな・・・」という感想を白田さんに対して持つ、鈴木謙介さんよりも「サイバー」に対する思い入れはないのだと思う。これは後述するが、ライフステージとか世代の問題に関わる。

たしかに東さんが指摘したように、2つのサイバーは共犯関係にあると思うし、北田さんの言うように、保守かつサイバー・リバタリアニズムとか保守かつサイバー・コミュニタリアニズムという立場は取れる。事実、私がそうだと思う。

つまり、私はどちらかというと価値ニュートラルでもある。でも完全にニュートラルにはなれない。人とはそういうものだから。鈴木健さんがいうように、「啓蒙」だけでなく「運動」にも関わっているから自ずと戦略的に保守の態度を取っている部分もあると思う。そして白田さんのような全体的な価値形成の可能性も捨てられない。

  • この研究会の検討の射程は?

最後に東さんが言っていたが、「情報社会の倫理と設計」というのは「日本における」なのか「普遍的な」なのか。鈴木健さんは「普遍的な」方が好きなのだろうが、あまり一般化しすぎると、応用可能性はなくなるというのは理論の常。ここははっきりさせた方が良いのではないか。

  • そもそも、どの程度の人あるいは知識人(blogである程度まともな意見表明する人という程度の意味)を想定した議論なのか?

途中で委員の選出が非常に練られていることを感じさせるくだりがあった。まさに「ケータイを持ったサル」か「スマートモブズ」かという話を考えるにあたって、ケータイ世代が必要と考えたという部分だ。たしかに彼らはネットにケータイで接続しているとは思っていないよね。あとはゲーマー世代というのもあるらしい。

この研究会のアウトプットを実践していくうえで、「3秒ルール」が適用されることもあるだろうが、わかりやすさの問題とは別に、「時間のない人」を想定した議論が啓蒙段階でなされているのかという疑問を感じた。

「時間のない人」というのは私のような人ことである。具体的に言うと、フルタイムで働く妻がいて、子供がいて、子供の世話を祖父母にまかせない(まかせられない)人である。私は現在、会社を休んでいるので少しは時間に余裕ができたが、Blogだってそれなりに頭を使うエントリーはそんなに書けない。会社員とかならなおのことだ。世代もけっこうだが、ライフステージも視野に入れて欲しい。若いメンバー中心のこの委員にどれだけ、上記のような人がいるのかはちょっとだけ確認した方がよいと思う。

私みたいな凡庸な人が、価値ニュートラルっぽく、つまり保守主義的な立場をとれるようになったのは、やはりこどもの誕生とその成長という要因が大きいわけだ。経験からしか学べないから。この子が大人になるときに少しはまともな国(世界)になっていて欲しいと思う中から、それまでのネットバカ、つまりサイバー・コミュニタリアニズムとしての自分とサイバー・リバタリアニズムとしての自分以外のもう一つの側面を持てるようになったわけだ。

つーことで、ライフステージの視点をいれないと、ニートと本質的には同類の「脱社会的」、つまり「こどもなんて持つと面倒だから、2人でしっかりお金だけ稼いで、食べ歩きや海外旅行に行きましょう」という人たちのための、あるいは古典的Scholarのための議論になってしまうかもしれないよね。